【連載小説】フィレンツェのひと夏のジュエル~プロローグ

フィレンツェの街は、今日も太陽の光を浴びて輝いていた。

しかし、ジュエリー工房の一室で、葵木夏奈(あおき・かな)は新作のデザインに頭を抱え、苦悶していた。

32歳。日本で実績を積んだ後、念願叶って5年前にフィレンツェの工房へ移籍。それからというもの、数々の賞を受賞し、確固たる地位を築き上げてきた。

だが、今は創造の泉が枯渇し、焦燥感だけが募っていく。

工房の喧騒から逃れるように、夏奈は近所のカフェへと足を運んだ。エスプレッソの香りが、わずかに心を落ち着かせてくれる。

新作のデザインコンセプトは「再出発」。過去の栄光に囚われず、新たな自分を表現したい。しかし、具体的なイメージが全く湧いてこない。

ため息をつきながらコーヒーを一口飲むと、背後から声をかけられた。

「スクージィ。エ・リベーロ・クエスト・ポスト?(すみません、こちらの席は空いていますか?)」

流暢なイタリア語だったが、どこか聞き覚えのある声。振り返ると、そこに立っていたのは、先日ヴェッキオ橋で見かけた青年だった。

太陽を浴びて輝く黒髪、吸い込まれるような深いブラウンの瞳。その姿は、まるで自分がデザインするジュエリーのように、洗練されていて、どこか儚げだ。

夏奈は少し驚きながらも、反射的に笑顔を見せると「プレーゴ(どうぞ)」と答えた。

「グラッチェ(ありがとうございます)」

青年は丁寧に頭を下げ、夏奈の向かい側の席に腰を下ろした。

「あの、この前、ヴェッキオ橋でお見かけしたような…」

夏奈が勇気を出して日本語で話しかけると、青年はハッとした表情で答えた。

「あ、もしかして! そうですよね、覚えています!」

これをきっかけに二人の会話は弾みだし、お互いを自己紹介するに至った。

「僕は涼松大樹(すずまつ・だいき)です。日本から来たばかりなんです」

涼松大樹。その名前を心の中で繰り返す。

そして「葵木夏奈と申します」と言い、軽く会釈をすると、大樹は少し照れくさそうに微笑んだ。

二人はすぐに打ち解け、イタリアの美術や文化について語り合った。

大樹は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品について熱く語り、夏奈の知っている情報にも興味津々に耳を傾けていた。22歳という若さでありながら、彼の知識は深く、芸術に対する情熱は本物だと感じられた。

夏奈がイタリア滞在について尋ねると、大樹は少し頬を赤らめながら答えた。

「大学の休暇を利用して、イタリアを旅しているんです。フィレンツェは芸術の都だと聞いて、どうしても来たかったんです。建築、絵画、彫刻すべてが僕の心を刺激するんです」

大樹の瞳は好奇心に満ち溢れ、少年のように無邪気だった。その純粋な輝きは、夏奈の心の奥底に眠っていた情熱を呼び覚ますようだった。

「夏奈さんは、フィレンツェにどれくらいいるんですか?」大樹が尋ねると、夏奈は少し感慨深げに答えた。

「私はもう5年になるわ。ジュエリーデザイナーとして、この街で夢を追いかけているのよ。最初は言葉も文化も分からなくて苦労したけど、今は本当にこの街が好きになったわ」

大樹は目を輝かせた。

「すごい! ジュエリーデザイナー! 僕、小さい頃から宝石を見るのが大好きで。いつか自分の手でジュエリーを作ってみたいと思っていたんです。でも、なかなか踏み出せなくて

夏奈は、大樹の純粋な眼差しに心を奪われた。彼の言葉には、嘘偽りのない、まっすぐな想いが込められていた。彼と話していると、創造意欲が湧いてくるような、不思議な感覚に包まれた。

別れ際、大樹は少し躊躇しながら、夏奈に尋ねた。

「もしよかったら、明日もどこかでお会いできませんか? 夏奈さんのオススメの場所を教えてほしいんです。あと、ジュエリーのお話ももっと聞きたいです」

夏奈は少し戸惑った。年下の、しかも異性の友人と二人きりで会うのは、久しぶりだった。しかし、彼の真っ直ぐな瞳を見ていると、なぜか断ることができなかった。

「ええ、いいわよ。仕事の後でも良ければ。明日の午後6時に、ミケランジェロ広場で待ち合わせしましょう」

約束を交わすと、大樹は満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございます! 明日が楽しみです!」

こう話す大樹の笑顔が、夏の陽射しのように眩しかった。夏奈は、胸の高鳴りを抑えながら、工房へと戻った。

工房のデスクに座ると、先ほどまで頭を悩ませていたデザインのアイデアが、次々と湧き上がってきた。大樹との出会いが、夏奈の創造の泉を再び湧き上がらせたのだ。

まるで、長年眠っていた宝石が、再び光を浴びて輝き始めたかのように。今夜は眠れそうにない。新しいデザインを形にするために、夏奈は夢中でペンを走らせた。

大樹は、夏奈にとって一体何なのだろうか。ただの偶然の出会いなのか、それとも夏奈は、期待と不安が入り混じった複雑な感情を抱えながら、明日の再会を心待ちにしていた。

次回:「第2章:ミケランジェロ広場での約束」へと続く

著者プロフィール

ソーニョ杏奈(あんな)

東京都在住。
イタリア留学でその文化と芸術に深く魅了され、現在は趣味で小説を執筆。
こよなく愛するジュエリーの輝きと、心に残るイタリアの美しい情景を、物語を通して表現することに喜びを感じている。
本作『フィレンツェのひと夏のジュエル』では、留学時代の思い出の地フィレンツェを舞台に、きらめく宝石と運命が織りなす物語を紡ぐ。



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